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テリーライリーのラーガレッスンと、聴く事の困難さ


  ラーガとは何か?以下ライリーの弟子であるサラさんの説明を一部抜粋する。

“ラーガとは、その場の”mood”を創るもので、その”mood”の”spirit”を音階にしたもの。例えば、朝日も夕日も太陽が地平線にある景色だけれど、それぞれの”mood”がある。朝日が昇る時の、あの”mood”を創りだしている”spirit”がある。夕日が沈む時の、あの”mood”を創りだしている”spirit”がある。ラーガとは、それらの”spirit”たちを、忠実に、音程の軌跡で表現したものであり、それらの音程の軌跡には、spiritと同じ名前が付けられている。

(Bhairavは、音階の名前ではなく、Bhairavというspiritの名前で、そのspiritと共鳴することでBairavを正確に奏でることができると説明してくれた)

ラーガはマイクロトーンなのだ、とテリーさんはよく言っている。分かりやすく言えば、ド~ド#の間には無限に音階が存在する。ラーガの基本は細かい音程の差を繊細に聴き分けること。音波だけではなく”mood”そのものを宇宙が奏でる音として聴くこと。なぜなら音程がズレればその”spirit”ではなく、別のものなってしまう。インド古典音楽が難しいものとして認識される理由の一つには、この音程への厳しさが挙げられるのではないかと思う。

テリーさんは、聴くことの大切さに最も重きを置いている。周りでどんな音が鳴っているのか、自分はどんな音程で歌っているのか、自分の”mind”の”mood”は今、どんな音を鳴らしているのか、聴く力を鍛えることこそ、ラーガの練習であり、それによる恩恵は、宇宙を知ることにつながるということなのだ。”


以上の説明は殆ど事前に知っていた基本情報でもあるのだが、当クラスにおいては異なる説明をしていた。

“ラーガとは、元々マントラであり、AUMの三音の一音にSa Re Ga Ma Pa Da Ni Saのように様々な音程を付け、音楽的に発展させていったものである。宇宙は振動であり、それを象徴し現出させたものがタンプーラで発信するお馴染みのドローン音である。”

つまり、このSaのドローンはブラフマンであり、自己と宇宙の同化を図らなくてはならない。自己を探り、周囲を観察し、宇宙を見、真にセルフレスにならなければならない。


このセルフレスという概念はここ数年俺が音楽を考える上で最重要視してきたもので、特に創作においては最も影響が大きい。行為の主体であるという個我の幻想を取り払う事は安易に自己表現をするという誤ちを防ぐ他、様々な状況で俺を助けてくれた。この説明を受けた時、これまで蓄積してきたものが小さな点となり、俺の糞小さい脳メモリーに空き容量ができた気がした。


  グルが部屋に到着する。弟子が抱えているタンプーラ2本を調律する。タンプーラはシタールと似た構造で出来ており、独特のビビり音は弦を“さわり”に微妙に触れさせることで発生させている。グルはペグに一切触れず、この“さわり“を調節し倍音を変化させていた。音程は変わらず、倍音が急激に変化する。この瞬間、部屋全体に音の波が放射線状に拡散し、空間と同化し、溶けた。これは衝撃的な経験だった。興味本位でシタールに手を出し挫折したからよく分かるのだが、この手の楽器は調律が合えば良いというものではない。音楽と楽器と精神と世界を深く経験し、それらの関係と働きをよく理解していなければそもそも音を出す事すら意味を成さないのだ。これがどれ程のものなのか、サックスやその他楽器もトーンの追求というある種求道的側面はあるのだが、あまりにも異次元過ぎる。


  レッスンは瞑想から始まる。つまり自己と宇宙とを統合しようとする試みだ。先ずはタンプーラのドローンに集中する。可能な限りの倍数と音の波を全て探り取る。徐々にゆっくりとカメラをずらしてみる。タンプーラを反射した天井はどの様な音を発するのか?壁は?地面はどう振動する?

どれ程感覚を研ぎ澄ませようとも、これは物理現象を知覚しているに過ぎない。この音との物理的関係性から切り離した関係性を知覚し直さなければならない。俺の身体は?心は?部屋の外の環境音や可聴域外の音とも調和していく。


グルの指示の下、生徒全員でハミングし、ドローンと音程を摺合せていく。ゆっくりと喉を開くとタンプーラと自分の声、生徒の声、それらが複雑に絡み合った全く新しい音、全てが完全に調和している空間を知覚する。共鳴する事で微妙に重なる歯がガタガタと振動し、その重なりが新しい音を発信し、音の関係性を更に複雑化する。

ああ、俺の身体は俺の意思とは無関係に歌い始めたのか。

共鳴関係の為、隣の女性の些細な倍音変化につられた俺の歯は振動回数を変える。しかしどの様な変化も飲み込む様に空間は調和し、完全に溶け合っている。

気が付けば遥か遠くで鳴く蝉の声、トラックの排気音でさえも共鳴している。無限の倍音の関わり合いの中から蝉の声をピックアップする。俺は聞くことのできない音を聞いている。音は自然に想像力と結合し、心も歌い始めたのだ。

タンプーラの音に貴方の心はどう反応しますか?という問いを感覚的に理解してきた。


世界に普遍的な音は存在するのか?

ラーガの“Sa”は西洋音楽的に“ド”に相当するが、これは固定ではない。奏者によって“ファ#”だったり“レ”だったりもする。ラーガにおいて音楽的に重要な点は、旋律としての音度とその繋ぎ方、それと倍音である。このSaが倍音としてどう機能するかが重要なのだ。俺の心を部屋から、外へ、遠くへ連れ出し、蝉の声を聴かせるのは豊かな倍音が世界を象徴するからだ。

レッスン終了後練習したラーガを伺った。肝心のラーガの名は忘れてしまったが、それは陽炎が立ち上がるような熱い夏のラーガだったそうだ。


  今回改めて聴くという事の難しさに驚いた。あれはポーリンオリヴェロスの著作だったかな?確か現代人の聴力の衰えを危惧していた。下らないガジェットまみれの“発展した”都市的生活の中でそのノイズに埋もれないよう音を電子増幅させたはいいものの、聴者の受動的態度は深刻化してしまった。古くからインド諸楽器の音量が小さいのは聴者が能動的に音へ向かわなければならないからだ。

しかしながら“聞く”と“聴く”という言葉の差異が代表するように、現代人でなくとも非常に難しい問題だ。訓練する必要がある。禅ではよくある話だが、世界をあるがままに現出させる為に器としての身体の知覚解像度を向上させる。その為に基礎として、脳と身体を最高状態にする事が求められる。サラさんも仰っていたが、自分は歌えていると感じていても実際はかなり遠くへ行ってしまっている事がある。ラーガは心身状態や状況をそのまま反映するのだ。クラスでは繰り返しこう強調された、“常に自分をチェックする習慣を身につけなさい”と。


  その日以来俺の頭ん中でずっとあのタンプーラが鳴っている事、お昼にプランナート流カリー・ライリーを頂いた事(多分南瓜ベース)、屋敷の奥に布が掛けられた埃まみれの“Bryon Gysin’s Dream Machine”と書かれた物体を発見した事、謎の漢字曼荼羅やウルフリに影響を受けたであろうイラスト、ラーガとスーフィズムとの関係、曲構造や流派の事など、書きたい事は腐る程あるがここではクラスの印象と感想以外書く気にならない。


  俺はこれ程まで解像度の高いスピリチュアリティを持った音楽を他に知らない。レッスン中ずっと内と外が二転三転し、なんだかもうよく分からなくなってしまった。クロウリーのアストラル旅行だとか、こんな感じなんだろうか?

“一般的にラーガと聞くと、時間帯や季節ごとに歌うラーガが決められている印象があるのだが、テリーさん曰くプランナートはその時の自身のムードで歌うラーガを決めていたそうだ。故にインド古典音楽では異端扱いだったらしい。”とサラさんは語っている。

本当にそうなのだろうか?完全に溶け合い一体化した空間には内も外も糞も無い。聖人にとってムードが世界なのか、世界がムードなのか、その差異を問う事など全くのナンセンスだと思う。


  まぁ、ブルースリーとかならこう言うんじゃないかな。

“波になれ、友よ。”


君は一つのバイブレーションだ。どうであれ、君は発信し、世界は振動している。波になって周囲を見渡し、サーフするんだ。それがケイオスへの近道だ。


 俺は遠くへ行きたい。どこまでも、どこまでも遠くへ。

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